COLUMN

第2回 サミュエル・フラー、再見と初見

小沼純一

 そうか、こんなのもDVDになったか、と手にとる。大抵は店頭で、カタログをめくったり、ネット上で眺めたりということは滅多にない。そこにモノがある。モノがあって、表とか裏とかをいろいろ眺めて、うん、そうだ、これだな、と納得する。DVDにだって顔がある。本やCDだっておなじだ。その顔はやっぱりじかにみないとわからない。勝手にそう思っている。ながい習慣といえばそれだけのことだが、おなじ解説や売り文句でも、パッケージ裏にレイアウトされているほうがいい。のっぺらぼうのネット上よりもはるかに考え抜かれている気になる。その意味ではフェティッシュなんだろう、きっと。
 いまかいまかと待ちかねたDVD化のひとつに『ストリート・オブ・ノー・リターン』がある。言わずと知れた、サミュエル・フラーの1989年度作品。再会、いや、再見になる。フランスとポルトガルの共同制作だが、もちろん舞台はアメリカ。冒頭の、という言葉を書いて、いや、冒頭よりも最初、がいいかな、と思いなおす。おなじことではあるが、まさに、映画の“もっともはじめ”のカットに、いきなりノックアウトされる。レトリックだが、文字どおりでもある。男ががん!と顔をぶん殴られるのだ。アップで。これには驚いた。カメラはつづいて夜の路上の至る所で殴り合っている男たちを映しだす。それを影から覗きみている、髪の毛のぼさぼさの浮浪者。もうそれだけで釘づけである。うわぁ、なんだこりゃあというかんじで席からのりだした。初見は’89年秋だった。

ストリート・オブ・ノーリターン
『ストリート・オブ・ノーリターン』
(C) 1989 THUNDER FILMS INTERNATIONAL

 ふだんは少なからぬ映画のタイトルがフランス語になおされるパリだけれども、この映画は英語そのままだった。フラーの名も大きかった。9月か10月だったと思う。幾分夏の暑さが和らぐのを感じはじめた頃に、ポスターが貼りだされた。どこでもやっているというほど大々的ではなかった。カルティエ・ラタンのあたりではよく見掛けた。ベルリンの壁崩壊の年ではあったけれどその予感はまだなかった。映画館には『恋人たちの予感』が、『アビス』が、『バットマン』が、『ジプシーのとき』が、じき、かかることになる。
 あ、フラーだ、『気狂いピエロ』で「映画は戦場だ」と語っていたフラーだ、日本では国辱映画の烙印を押された映画を撮った監督だ、と、誰でもが知っている知識が脳裏を駆け抜け、その新作が、もうすでに70代後半になっているというのにこのパリで観られるということにやたらと興奮していた。当時親しくしていた何人かに、あれは観たほうがいい、いや、観るべきだと、まだ観てもいないのに言って回った。だって、『ストリート・オブ・ノー・リターン』だぜ、このタイトルにぐっとこないか、如何にも夜の、後ろ暗い、ハードな匂いがするじゃないか。
 ストーリーはわかりやすい。一言でまとめることだって無理ではないかもしれない。でも、そんな凡庸さなど何だと言うのだ。一瞬たりとも飽きずに、ただ、観てしまう。笑ってしまうような、これ、本気で撮ってるのか、ジョークかパロディのつもりなのか、というシーンだってないわけじゃない。そうしたところでさえ、どっかに引っ掛かってくるのだ。
 パリで観て、日本で公開されたときにも、すでに滞仏を終えて戻っていたので、観に行った。’90年の夏だったか。15年以上も前になる。『ストリート・オブ・ノー・リターン』と聞くとすぐに浮かぶ幾つものシーンがあるが、久々にDVDで見直してみても、そうそう、こうだよねと確認できると同時に、あ、これは知っている、そうだ、これも記憶にある、と予想以上につよく記憶に刻印されていることがあらためてわかったりしたものだ。
 割れた酒瓶に残ったわずかなウィスキーをずずっと飲み、たれてくる雫に口を開けてみせるなさけないキース・キャラダインが、元ロック・スターで、きらびやかな過去の姿を回想するかと想えば、機転をきかせて警察から、暴力団のアジトになっている船から逃れる素早い行動力を見せるコントラスト。終始クールであるかに見せるアラン・ルドルフの作品とはまた違ったこの役者の良さがここにある(そういえば、ルドルフの映画も、『チューズ・ミー』、『トラブル・イン・マインド』、『メイド・イン・ヘヴン』など、DVDになっていないな……残念)。

裸のキッス
(C) 1964 ALLIED ARTIST PICTURES CORPORATION

 『ストリート・オブ・ノー・リターン』、最初の一撃が、もちろんかたちは違うけれども、’64年の『裸のキッス』にもあるのを知って驚いたのは今回のBOXセットのおかげだ。こちらの主演はコンスタンス・タワーズ。ジャズのリズムをバックに、男を靴で何度もひっぱたき、ノックアウトする。この女優が化粧でだんだんと変わってゆくタイトル・シーンの顔。バス停のあたりに立ったところで、みごとに光と影が浮かびあがる顔の立体感、バスから降りてくるときちょっとだけ先にみえる脚。
 アクションとはまた違う、こうしたちょっとした細部が積み重なって、或る映画についてのあいまいな記憶が、つくられてくる。そして他の映画のなかの細部と共鳴を起こす。いま、久々に見直した1本と、初めて見た1本と、「再見」と「初見」が、いま、〈わたし〉のなかでピンボールのように、行ったり来たりしている。

【プロフィール】

小沼純一(こぬまじゅんいち)
音楽文化論。早稲田大学教授。近著に『バッハ「ゴルトベルク変奏曲」世界・音楽・メディア』(みすず書房)、『あたらしい教科書 音楽』(監修:プチグラ・パブリッシング)、『サイゴンのシド・チャリシー』(詩集:書肆山田)。