小沼純一
ただのガソリン・スタンドのおやじだ。夜食のソーセージを焼いているので、客がクラクションをならしつづけてもなかなか出て行こうとしない。3年というもの、客と必要最小限のことを話す以外、ひとと口をきいたことがない。
この男、コリューシュ演じるランベールが、復讐にでるのである。
人間ドックの検査だと嘘をついてスタンドを休む。そして、「敵」のいるところに出向く。
深夜、店からでてきた男を見つける。豪華なオートバイに尻をのせたばかりの男に問いをむけると、当然、ヤツはシラを切る。ランベールは表情をまったく変えずに、幾つもついたバックミラーを、叩き壊す。そのときの音ったら。
慌てて叫ぶ男。また質問だ。シラはつづく。そして叩く。
ちょっとした隙に逃げようとするヤツを無情に撃つ。転がったときにはもう動かない。ぴくりともしない。ランベールの顔もそのままだ。
ネタバレなどと言うなかれ。ストーリーなど隅から隅までわかっていても、この映画を見るのに支障はない。『チャオ・パンタン』、このちょっとした言葉は、若きヤクの売人のアラブ系移民、ベンスサンがランベールのスタンドから別れるときに吐かれる。軽い言葉、ただの挨拶、だったはずなのに、まともな最後の挨拶となってしまった言葉、だ。
『チャオ・パンタン』は1983年公開だが、おなじ頃、『愛しきは女/ラ・バランス』というのもあった。二作品とも、男がいて、女がいて、刑事がいる。ちなみに両方にでているのはフィリップ・レオタール。おもいっきり目がさがっているのに情けなくない顔だ。『タンゴ ガルデルの亡命』も良かった。
おなじような復讐をめざす男に、長年しがない営業マンをやっているシモン――ジャン・ヤンヌ演じる――がいる。おとり捜査に手を貸したのに、刑事が撃たれ、植物人間になってしまう。病院で話しかけ、楽器まで弾いてやる。でも動かない。動くのは老年にさしかかった自分だ。
『天使が隣で眠る夜』。でもこれはただの復讐劇ではない。まさに「天使」のような、マチュー・カソヴィッツが、そして足の悪いジャン=ルイ・トランティニャンが、ユーモラスだったりかわいらしかったりもするのである。脅しの訓練をやっているマチューなんて、ほんと、おかしい。そして、へまだけどけっして憎めないのだ。数年後の『憎しみ』へとこの俳優が進むことになろうとは、いま考えると、驚きだ。
30分もの時間をかけて銀行強盗のプロセスをしっかりと見せる『男の争い』は、その間、まったくの無言だ。作業をつづける現実音がとてもリアルにひびく。始めの方でマガリ・ノエルが《リフィフィ》を歌うミュージックホールのシーンなどとはおよそ隔たった、ストイックな、男たちの「仕事」の世界がここにある。そしてまた、ラスト・シーンで傷を負ったジャン・セルヴェのカッコよさは何だ。はしゃいだ子どもを乗せたオープンカーで郊外からパリにはいってくる。意識が遠くなり、それだけ少しずつ向かうべきところに近づいてくる。木々の枝まで朦朧としてくる、信号の色が変わるたびにこれで最後かと思わせる。
それにしても、である。実在するギャングや裏社会はできるかぎり遠巻きにしたい。それなのになぜ、小説や映画だと惹かれるものを感じてしまうのか。ふつうに生活している、生身の自分にはまったく欠けているヒロイズムみたいなものに憧れるのか。もちろんセンチメンタリズムも欠かせないのだけれど。
次から次へと撃ちまくるのではない。狙いがあっという間に決まり、ばん!と一回。ためらいはない。引き金を引くまでのサスペンスは消去されている。この潔さ、だろうか。
パリの、ではなく、ニューヨーク、それも夜の思い掛けない場所を幾つも見せてくれるのは『マンハッタンの二人の男』。いなくなった人物を捜して二人のフランス人が、秘書の私室があり、劇場があり、売春宿があり、録音スタジオがあり、ヴォードヴィル・ショウの楽屋を訪れる。しかも彼らは刑事ではない。『勝手にしやがれ』を撮るにあたって、ゴダールが影響を受けたとか受けないとかいう話もあるゲリラ撮影やテンポ感が、たまらない。音楽を担当しているのもおなじマルシアル・ソラールだ。ここでピストルの代わりになるのはスクープを狙うカメラか。
『男の争い』ではイタリア系が、『チャオ・パンタン』ではアラブ系がいる。『天使が隣で眠る夜』では、3人の男たちは移動中であり、『マンハッタンの二人の男』はフランス人が合衆国にいる。フィルム・ノワールと一括りにしていいかどうかはわからないけれども、こうした映画では、居心地の悪い者のかんじというのも、その時代時代で映しだす。
かつての情婦だった相手は、次から次へと殺し合ってギャングなんていなくなってしまえばいい、と言う。貧乏な子はたくさんいたのになんであんたはギャングになったのかと問う妻もいる。そうか、『男の争い』は、ギャングを描きつつその存在を非難もする、そんな立体性も持ち合わせた作品だったのだな。いまさらながら、そんなことを思って、フィルム・ノワールを見る口実にしようか、などと。
小沼純一(こぬまじゅんいち)
音楽文化論。早稲田大学教授。近著に『バッハ「ゴルトベルク変奏曲」世界・音楽・メディア』(みすず書房)、『あたらしい教科書 音楽』(監修:プチグラ・パブリッシング)、『サイゴンのシド・チャリシー』(詩集:書肆山田)。