小沼純一
時間がながれていたのを忘れてしまうような映画。エンド・クレジットがでてきたとき、もっとつづいていてほしい、もっと見ていたいと感じてしまう映画。集中していたのに、「見る/観る」ことを意識せずにいたような映画。この心地よさ、幸福さは何なのか。
公開された映画は見損なってしまったから、DVDになるのを心待ちにしていた。
『アンリ・カルティエ=ブレッソン 瞬間の記憶』である。
いまさらわたしが説明するまでもない、アンリ・カルティエ=ブレッソン——略してHCB——は高名な写真家で、国際的な写真家集団「マグナム」を結成した人物のひとりである。そして、「決定的瞬間」という言葉もHCBとともに生まれ、あった。
HCBが回想し、語る。女優イザベル・ユペールが、写真家のエリオット・アーウィットが、ジョセフ・クーデルカが語る。
ゆっくりした、まるで急ぐことのない映画のテンポが、晩年のHCBの生のありようとシンクロする。
1枚1枚の写真を手にとるHCB。それを撮影したとき、どんな状況だったのかが記憶のなかに甦り、言葉になる。けっして多弁で早口ではなく、簡潔に。それが老人のテンポであるのかもしれない。饒舌に語る、説得的だがときどきちょっとうるさくも感じる元気な壮年のフランス人とは違う。それがまたひとつの映画の魅力でもある。
一切、若い頃のHCBが映らないのも特徴的だ。ジャン・ルノワールの第二助監督になったりしたこともあるが、そのときの第一助監督になったのはジャック・ベッケルだったと微笑みながら語る。写される、被写体として残された自分、HCBはいま、この映画のカメラの前だけで充分、昔日の自分は撮る側だった、写真家だったのだと徹底しているかのようでもある。そうなのだ、ここにあるのは回想なのだ。写真という物質化した記憶と、HCBのアタマのなかにある記憶とが、モニターを通して、イメージとして、音として、言葉として、交差する。
画家のマティス。死の床にいるガンディー。中国の最後の宦官のひとり。ギリシャの走り去る少年。メキシコの群像。あのときの光と影が、写真に定着している、そんなことをあらためて、感じる。
だから、おなじように写真家を扱ったドキュメンタリーでも、『アウグスト・ザンダー』とは違う。このドキュメンタリーも素晴らしいが、語りは基本的にその生涯を時系列的にたどり、あいだに写真が、風景が、証言が挿入される。長く生き、ドキュメンタリーを撮影されるようになるか、偶々そういうきっかけがなかったか、それだけで、アーティストの見え方は、後に生きている者にとっては、違ってきてしまうのだとあらためて思う。
こんなふうに言いながらもしかし、動きが生命ともいえる映画に写真が映しだされるということに、どこかしら居心地の悪さを感じていなかったかといえば、やはり感じていたのである。印刷された本のなかでじっくり、何秒、何十秒、何分も見られる写真なのに、映画のなかでは少しの時間、決められた時間しか見続けることができない。それは、文字のつらなりを自由なテンポで読む本と、その文字たちが朗読されて耳にはいってくるときの煩わしさと似ていなくもない。
写真家のドキュメンタリーはといえば、写真家自身と撮影された写真そのものと、どちらも主役である。前者は一種のストーリーとして、後者は写真集から画面にプロジェクションしたようなものとして、見ればいい。もし写真をじっくり見たかったら、その場面で動きを「一時停止」にしてしまえばいい。これはDVDのメリットでもある。
HCBは絵にも造詣が深い。撮影当時も絵を描いている光景が映る。そして、美術館で古典絵画を前にして、語る。ひとのいない、絵だけがならんでいる空間。そんなとき、つい、美術館が現れる映画を想いだす。男性2人と女性1人がルーヴルを走り抜けるゴダールの『はなればなれに』を、失明の危機のなか、深夜に忍び込み、小さなあかりをたよりに絵に近づくカラックスの『ポンヌフの恋人』を、そしてさらに『ルーヴル美術館の秘密』——美術館という場に関心を持っているひと、学芸員資格をとろうと思っているひと、インターンシップをやっていたりするひとには必見!——を。
背景にながれる音楽はバッハとラヴェルが中心。それもピアノの曲がほとんど。打鍵した音がすっと消えてゆきながら、ひとが記憶のなかで音楽を感じてゆくのは、またバッハやラヴェルの緻密に構成されつつ、感覚的に音楽をもたらしてくれるところが、写真をめぐって語る際に幾何学に言及するHCBとみごとに呼応している。しかも、ただ映像に音楽をつけただけではなく、一カ所ではあるが、HCBが音楽に耳をかたむけ、コメントするところもある。
来年、2008年には生誕百年を迎えるHCB。この6月には、ヨーロッパを巡回していた大規模な回顧展が、ヨーロッパ外で唯一、東京近代美術館でおこなわれる。わたし自身は、もう少しで見ることのできる展覧会の予習のようなところもあったのだが、そうした「予習」的な見方が、何度か少しずつ見ながら、変わってきたようだった。ドキュメンタリーは、フィクションとしての映画とは違った「時」をもたらしてくれる。それは、何度も見れば見るほど、慣れ親しんでしまえばしまうほど得ることのできる何かだ。
この文章がアップされる頃には、六本木の森美術館で、建築家、ル・コルビュジエの展覧会が始まっているだろう。3枚組のDVDボックスは、どんなふうに見ることになるのだろう。そんなこともひとつの楽しみになっているのかもしれない。
小沼純一(こぬまじゅんいち)
音楽文化論。早稲田大学教授。近著に『バッハ「ゴルトベルク変奏曲」世界・音楽・メディア』(みすず書房)、『あたらしい教科書 音楽』(監修:プチグラ・パブリッシング)、『サイゴンのシド・チャリシー』(詩集:書肆山田)。