COLUMN

第9回 さまざまな夏、夏でない夏

小沼純一

 アパートの一室、古本屋街、小さな駅、お茶の水をながれる神田川。
 どんな場面でも、そのまま、映っていると見てしまう。何も考えずに、ただ見入ってしまう。心身のどこかが安らいでいる。
 試写室で観て以来、この映画を身近においておきたいと思っていた。侯孝賢の『珈琲時光』である。
 日本の夏、などというと、昔日のコマーシャルを想いだしてしまうが、ここに映っているのは、自分が知っている、馴染んでいる夏、だ。雲のかたちも、風になびく木々や葉も、湿度の高そうな空気も、だ。
 大きなドラマは何もない。言葉にならず、なりきらず、わだかまりながら、ひととひととの「あいだ」に微妙な陰影が落ち、うつろう。古本屋の跡継ぎである浅野忠信は、その「あいだ」を掬いあげようとするかのように、ヘッドフォンをつけ、マイクを手にして、駅に発着する電車の音を録音してゆく。ぺったんこのサンダルを履いて、ほとんど地のままで街を歩く、小柄な一青窈。黙然と肉じゃがをほおばる小林稔侍。ふ、っと抜けるような、風とおしの良さそうな間取り。それが映っているだけで、いま、もうここには持っていないものを、嘘でもいいからちょっと戻してくれるような魔法の扉としての映画を、愛しく感じてしまう。

冬冬の夏休み
(C) 城市国際電影有限公司

 タイトルどおり、『冬冬(トントン)の夏休み』も夏の話だ。小学校を終えた冬冬が妹と祖父母のいる田舎に行って過ごす日々。台湾を舞台にしているというのに、映画の最初と最後にながれるのは《仰げば尊し》と《赤とんぼ》であり、夏休みで学年が替わるのと、中国語で言葉が交わされているのを除けば、ちょっと前の日本と変わらない。子どもたちはすぐ仲良くなり、妹は仲間はずれになる。祖父からは昔の話を聞き、都会で病院にはいっている母を案じる(このあたり『となりのトトロ』のようでもある)。狭い共同体のなかからちょっとはみだしている女性に、おそれを抱いたり、親しみを感じたりする子がいる。
 自分で体験をしたこともないのに、ここにあるすべてのもの、すべてのことどもに親しみを、懐かしさを感じてしまうのは、なぜ、なのだろう。平坦な景色のなかに立つ大きな木。ごつごつした岩のある川。吠えついてくる犬。小さなテーブルで黙々とご飯を食べる一家。夏休みが扱われているのに、冬冬という名をつけられた主人公。冬冬とはちょっと違ったところに感性の微細さをみせる妹の婷婷(ティンティン)。そういえば、侯孝賢の映画は、この二本にかぎらず、夏を、というより暑い日々での生活をしている人たちが、半袖の服を着ている印象がつよい。

イヴォンヌの香り
(C)1994 Lambart Productions -Zoulou Films - M6 Films - Centre Européen Cinématographique Rhône Alpes.

 おなじ夏でも、1958年、レマン湖畔の避暑地を回想するパトリス・ルコント『イヴォンヌの香り』は、そこにはいってゆけないし、そこに行きたいとどこかで願いつつ、ひたすらに見る、思いつづけるような風景であり、物語だ。徴兵忌避者のヴィクトールが出会うイヴォンヌ。恋。ほかのところはもっと暑いのだろうけれども、この地では涼やかな風が心地よく、イヴォンヌの肌はうすものからさりげなくあらわになる。ぐ、っとヴィクトールの、そして「わたし」の視線はこの対象にズームする。きっとこの女性は、イヴォンヌはどこかに行ってしまうのだろう、きっとハッピーエンドにはならないだろうとはっきりわかっているのに、この夏の女性を見ている甘美さから身をはなせなくて、不安を気にしながら、最後まで見てしまう。イヴォンヌを演じたサンドラ・マジャーニ、オランダ出身のモデルで、映画には本作にしかでていないという。そうしたところにもまた神秘性を感じてしまったりするのも、また、凡庸さとわかっているのだが。
 もしかすると夏を過ごす女性は映画にとって大切な一要素なのだろうか。特にヨーロッパ、夏の光りが大切なヨーロッパでは、だ。たとえば、ジャン・ベッケルの、イザベル・アジャーニ主演『殺意の夏』。シャブロルの、エマニュエル・べアール主演『愛の地獄』。作品の良し悪しよりも、そこにいるアジャーニの、べアールの姿と、光が、木々と葉のおとす影が、記憶にしっかりと焼きついている。

みじかくも美しく燃え
(C)1967 AB Svensk Filmindustri

 おなじく女性で夏、といっても、『みじかくも美しく燃え』(ボー・ヴィーデルベリ監督)はもっと北だし、時代も違う。スウェーデンの片田舎で、十九世紀末の実話に取材する。軍隊から、サーカスから逃げた男女の悲恋物語。二人の逃避行は次第に重く、苦しくなってくる。その時代の自由恋愛の困難さがだんだんと増してくる。それでも、モーツァルトのピアノ協奏曲は、涼やかに、二人に寄り添ってひびく。やさしくもあり、どこか残酷なのがモーツァルト。
 1967年に製作され、いまとなってはいささか冗長に思えなくもないが、おそらく「エルヴィラ・マディガン」という原題をみごとにロマンティックに移し替えたタイトルが、高度成長期の日本の若者にアピールするものがあったのだろう。ピア・デゲルマルク演じるエルヴィラが、ひとのいないところで、ロープを木と木に結んで両手でバランスをとりながら、綱渡りをするシーンなど、いまでもやはり、何か鈍痛のような孤独を感ぜずにはいられない。

 夏が舞台でもないのに、なぜか夏の気がしてしまう映画というのも挙げておこう。誰にとってもそういうものがあるにちがいないと思うのだが、わたしにとってはトニー・ガトリフ監督の『モンド~海を見たことがなかった少年~』だ。
 私事にわたるが、大学1年の前期、フランス語既習者のクラスで、ル・クレジオの「海を見たことがなかった少年」を訳読したのだった。これが『モンドとその他の物語』に収められた一篇で、余裕のあるとき、図書館から借りて、この短篇集を読んだものだ。そのときから、何とはなしに、短篇集全体が夏の感触だったのである。
 『モンド』は、海に接するフランス、ニースのかならずしも華やかではないところを舞台に、どこにも属さないモンドという少年を描く。モンドとつながりを持つ何人かの大人たちもまた、マージナルな、いわゆる健全な「市民」と呼ばれる人たちからずれているのだが、映画の視線はつねにあたたかく彼らに注がれる。ひびいてくる音楽も、ジプシー=ロマやピグミー、東方教会の聖歌と多様で、ガトリフの後の作品、たとえば『ラッチョ・ドローム』、『ガッジョ・ディーロ』といった映画の予感がしている。短篇でも映画でもそうなのだが、最後に、いなくなったモンド、もともと文字が読めなかった少年が釣りをしている男からゆっくりと文字を習った――このシーンはとても詩的だ――モンドが、「TOUJOURS BEAUCOUP(いつまでも たくさん)」と記すメッセージは、たとえ小説であろうと映画であろうと、何がしかの希望、先のあるもの、あることへのときめきを感じさせずにはいない。それは、もしかすると、たとえ一度去っていっても、夏がふたたびめぐってくることの期待なのだろうか。

【プロフィール】

小沼純一(こぬまじゅんいち)
音楽文化論。早稲田大学教授。近著に『バッハ「ゴルトベルク変奏曲」世界・音楽・メディア』(みすず書房)、『あたらしい教科書 音楽』(監修:プチグラ・パブリッシング)、『サイゴンのシド・チャリシー』(詩集:書肆山田)。