小沼純一
パラマウント社製作の映画は、大きく切り立った山がまずロゴのように映しだされる。山の頂上から最高の意味を表す、一種の換喩がそこにはあるわけだ。この山の絵柄が、ふっ、と浮き彫りへと変化し、カメラが後ろに引くと、それは大きな銅鑼に描かれた絵柄である。これを筋骨隆々の男が撥で叩く。ごぉぉぉんと余韻がひびくなか、煙がたちのぼり、赤いドレスの女性が歌い始める。
『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』(スティーヴン・スピルバーグ監督)の冒頭、歌っているのは、後に監督の夫人となるケイト・キャプショー。場所は1935年の上海との設定である。
歌われるのはその前年にアメリカで初演された、コール・ポーターのミュージカル『エニシング・ゴーズ』のテーマ曲。いつの間にかまわりにはミニスカート型チャイニーズ・ドレスの女性たちがタップを踏んでいる。メロディが、ソ・ラ・ミ・ソ・ラ・ソ・ラ・ソ・ミと東洋風の五音音階であるのもミソだ。
インディ博士ことハリソン・フォードは、その後密談相手と交渉が決裂、店のなかで華々しい撃ち合いになるのだが、先の巨大な銅鑼をごろごろと転がし、その後ろにはいって、我が身を防御する。果たして冒頭シーンに上海が舞台になる必然性があるのか?と思わないでもないのだけれど、国境をものともせず活躍するインディ・ジョーンズのありようをとりあえず提示するという意味で、また銅鑼が西洋からすると如何にも中国であるというのを示し、かつアクションの小道具になるという意味で、シャレた導入部というわけだ。
『インディ・ジョーンズ/魔球の伝説』は84年の製作だが、この頃、いまも活躍をつづける中国の監督たちが作品をつくりはじめていた。
中国共産党がまだ発足して間もない抗日戦争2年目、民謡を蒐集するという任務で陝西省を兵士が訪れるという『黄色い大地』(陳凱歌監督)も同年の作。起伏の多い、文字どおりの大地と、濁った水の流れる黄河、そしてものすごくよくのびる声が印象的なこの作品のなかで、急にいろめきたった空気がスクリーンに生じるのは、ほかでもない、婚約や結婚のためにやってくる楽隊の演奏によってである。甲高い音の管楽器がクローズアップされ、瘤のあるこぶりの銅鑼がちらりと映る。赤い帯も印象深い。設定が39年と、先のハリウッド映画と設定は4年しか違わないし、上海と陝西省と、おなじ「中国」であるはずなのに、都会と田舎、着ているもの、食べているもの、等など大きく隔たり、それでいてやはりおなじ「中国」だとなぜか勝手にわかったような気になっているところに、自分で自分に驚いたり、恥ずかしく思ってしまったり。果たして違いはあってもちゃんと共通したものを感じとっているのか、それとも、やはりひとの顔やちょっとしたモノからそれらしき何かを見いだしているのか。
やはり同84年、『芙蓉鎮』(謝晋監督)も撮られている。文化大革命時代の一地方を、イデオロギーに翻弄される一般人を描く。このなかでは、人びとを呼び集める合図として銅鑼が使われる。せいぜい直径が30センチから50センチくらいだろうか。手に提げ、叩きながら歩く。合図であるとともに不吉さを表してもいて、最後、「大革命」が過ぎ去った後、平和になった村のなかを、気のふれた人物が、過去の世界に生きながら、真ん中の破れた銅鑼を叩いて、すでになくなった集会を招集するのである。
2年後の86年、『冬冬の夏休み』(侯孝賢監督)は海を隔てた、しかしおなじ中国でもある台湾の作品で、先に触れた3本とは違い、はるかに「現代」である。川で遊んでいた友だちが牛を探しに、行方不明になってしまう。大人も子どももいっせいに探しに行くエピソードがあって、そこでも小さな銅鑼を叩いて、注意を喚起する。
個人的なこと、あくまで個人的なことなのだが、銅鑼に関心があるのである。特にこの夏、集中して書いていた本のなかで、銅鑼をめぐっての部分があったから、そういえばあの映画に、いや、あそこにも、と幾つも想いだしたというわけだ。中国の銅鑼の多くは扁平だが、東南アジアの系統になると、中央に瘤があったり、鍋のように縁が深くなっていたりする。呼び方も、中国風のタム・タムだったり、インドネシア風のゴングだったり、なかなかにややこしい。
おなじく銅鑼の類いでも、京劇では小さなものを幾つも使い、叩くと高い音がひゅーんと上がる雲鑼は印象深いもののひとつだが、残念ながら、あまりスクリーンで見掛けることはない。もちろん音は、京劇の役者を中国の現代史に重ね合わせる『さらば、わが愛 覇王別姫』(陳凱歌監督)や、京劇役者だった祖父にあずけられる少年を描いた『心の香り』(孫周監督)ではしっかりと現れる。ふだんはメガネをかけている少年が、終わりのほうで、悲しみとも怒りともいえない、しかしないまぜになった激情から演戯を初めてしまうシーンがあって、そこに路上で奏でられている音/音楽がシンクロする——圧巻である。
銅鑼は、やはり金属であるがゆえに、いわゆる自然界には存在しない音を発するがゆえに、ほかのさまざまな音をすりぬけ、しっかりとひとの耳の届く。アジアでもヨーロッパでも鐘が金属であるゆえんだ。高音で鋭い音もあれば、低く、いつまでものびてゆく余韻があったりするのも、物理的のみならず身体的に振動を伝える魔力を持っているといえるだろう。尤も、近代化された現代においては、かつてほどその特別な音の質感は失くなってしまったかもしれないけれども。
そんななか、こんな映画も想いだしてしまうのはピントがはずれているだろうか。
『ブリキの太鼓』(フォルカー・シュレンドルフ監督)、ギュンター・グラスによる長篇小説の映画化だが、成長しない少年オスカルに与えられたのがふつうの皮革を張った太鼓ではなく、ブリキの、金属的な音の太鼓であるのも偶然ではないはずだ。ガラスを割ってしまうようなオスカルの叫び声に張り合うためには、やはりこれは金属でなければならなかっただろうし、映画のなかで不器用に叩かれる太鼓の音は、どこか、陽気でありつつ、全然違うのだけれども、『芙蓉鎮』の破れた銅鑼とも通じあう、不気味さを、この金属の、メタルの氾濫している時代に、かすかにひびかせているにちがいない。
小沼純一(こぬまじゅんいち)
音楽文化論。早稲田大学教授。近著に『バッハ「ゴルトベルク変奏曲」世界・音楽・メディア』(みすず書房)、『あたらしい教科書 音楽』(監修:プチグラ・パブリッシング)、『サイゴンのシド・チャリシー』(詩集:書肆山田)。