COLUMN

第12回 フリッツ・ラングから連想することども

小沼純一

 子どものうたが聞こえてくる。
 一種のあそびうたで、カメラは集まっている子たちを映しだす。
 少女が連れ去られ、殺される事件が多発し、それがもう子どものうたにもなっているのだ。
 大人はそんなうたをうたうものではないと禁じるものの、しばらく経つとまた始まる。

M
(C) Atlantic-Film AG All rights reserved

 1931年、フリッツ・ラングの『M』は、ナチス政権発足の2年前に製作された。モノクロで、人びとの衣裳や建物の様子など、まさに戦前のドイツ。パリの石畳やアパルトマンのかんじではない。バウハウス的なデザイン感覚もしっかりあって、その直線性、鋭角性はさまざまなところで目にはいる。
 それでいて、この不吉なかんじはどうだ。いまの「わたし(たち)」とけっして無縁ではない。むしろ妙に馴染みのある、屈折した言い方だが、親しみのあるものではないか。ふと想いだしたのは浦沢直樹のマンガ「MONSTER」である。ひとりの人間のなかで巨大化する悪=モンスターとそれを追う日本人医師を扱うこのマンガは、直接『M』と結びつくものではないのだけれど、何かしら、そこにある空気感(ドイツのせいだろうか)や子どものうたとか、殺人とかから、連想させられる。そういえば“M”とは“Monster”あるいは“Murder”、この作品はドイツの映画だから、“Mörder”の頭文字にちがいない。
 帰ってこない娘の名を階段のうえから呼ぶ母親。蜂の巣のように角ばりながら下におりてゆく、不在の階段。誰も席についていない食卓。電線に引っ掛かった人形のかたちをした風船。何がといって、ひとがいないというだけの様子が、ラングの作品ではとても緊張感を持っているのだ。人影のない夜の街、古い醸造所というようなところが。そしてそこにはしばしば音が欠けている。無音である。そこがまたぐっと息を詰めさせる。サイレントの記憶、という以上に、トーキーになったからこそ、無音が立体的に演出でき、現実だったら何かしらの音があるはずなのになくなっているゆえの、である。
 そして、聞こえてくるのである。口笛が。いつもおなじ《山の魔王の宮殿にて》のメロディ。イプセンの芝居「ペール・ギュント」で、主人公ペールが魔王の娘を追って宮殿にはいり、小鬼トロールたちにはやされ痛めつけられる場面の、グリーグの音楽。4小節のメロディがくりかえされてテンションが高まってゆく。Mは何度もこれを吹くが、あるとき、ふと、転調させるのである。それも自然にではなく、どこか狂ったように、内心のどこかが乱れたように。その緊張感。

怪人マブゼ博士
(C) Atlantic-Film AG All rights reserved

 口笛は『怪人マブゼ博士』の比較的はじめのほうでも現れる。両作品に共通して登場するローマン警部が、今日は芝居に遅れずに行けると上機嫌で、ヴァーグナーの《ヴァルキューレ》のメロディを吹く。尤も、すぐそれは電話によって中断されてしまうのだが。
 製作は'33年。もうナチスは政権を掌握していて、ラングはこの映画の公開許可ももらえない。
 冒頭、偽札工場をつきとめたホフマイスターであったが、恐怖に怯え、狂気に陥って、奇妙なうたをくりかえしうたう羽目に。♪グローリア、グローリア、可愛いバタヴィアの娘たち……(それにしても、ここになぜバタヴィアの、とあるのだろう。やはり植民地主義的なイメージのなごり?)
 トーキーになっての効果としては、クラクションをさんざんならしておいて、ピストルを撃ち、殺人を遂行するというシーンがある。この映画の冒頭部分での工場の騒音、ホフマイスターの奇妙なうたともども、しっかり記憶に残る。
 『M』が浦沢直樹だとするなら、『怪人マブゼ博士』はトマス・ハリスの小説を映画化した、レクター博士シリーズだろうか。天才と狂人は紙一重、あまりに明晰な知性が犯罪へと一直線につながってゆく。マブゼは社会を混沌に陥れることを画策し、レクターが求めるのはむしろとても個人的な嗜好なのだけれども。
 どちらの作品でも、部屋のデザインとか、モノクロゆえの光と影の美しさにはっとする。魅入ってしまう。それも、近代都市独特のものゆえの、光と影のコントラスト。ほんの一瞬のシーンでも、リマスタリングされた映像では、ううむと唸ってしまうほどだ。そうしたなかに、サイレントの記憶が残る大袈裟な身振りもあれば、ホフマイスターが収容されている部屋で見る幻影の背後にしつらえられた表現主義風の歪んだイメージも現れる。

 『M』では、多くの押収品が警察でならべられているシーンがあった。『怪人マブゼ博士』では、盗んできた宝石がならべられていた。そして『ニーベルンゲン』でも、アルベーリヒに案内されたジークフリートが発見する宝の山がある。ラングはこうしたモノをならべ、そこにカメラを向け、映画を見ている者の視線をそのさまに注視させてしまう。ちょっとタイプが違うけれども、サイレント時代における『メトロポリス』のロボットもそうだ。こうした金属の煌めき、滑らかな触感、冷たさ、モノとしてのありようが、ラング作品にはときとして登場し、モノクロでこそ可能な輝きをもたらす。もちろん神話の世界である『ニーベルンゲン』でも、さまざまなかたちの冠や兜、甲冑が光りを反射するのであった。それに対して、『怪人マブゼ博士』で亡霊なのか幻想なのか、マブゼ博士が薄いかんじで椅子に座ったり、ひとに憑依するシーン、『メトロポリス』のロボットとマリアが重なるシーンなど、『ノスフェラトゥ』や『カリガリ博士』といった'20年代の恐怖映画を彷彿とさせずにはいない。19世紀末に多く写された降霊術写真との親近性ももつ、科学とオカルトとが結びついていた映画という「魔術的芸術」の記憶、などとは言い過ぎだろうか。

 こうしたドイツ時代のフリッツ・ラング作品は、もうストーリーも充分にわかっている。だからこそ、ストーリーの進み方に煩わされることが少なく、じっくりと時間のながれと細部にひたることができる。画面からにじみでてくる現代や過去とのつながり、時代を超えて行き来するさまざまなことどもの連想といったものも、この「わかっている」なかで想像されるのかもしれない。ふと、そう思う。

【プロフィール】

小沼純一(こぬまじゅんいち)
音楽文化論。早稲田大学教授。近著に『バッハ「ゴルトベルク変奏曲」世界・音楽・メディア』(みすず書房)、『あたらしい教科書 音楽』(監修:プチグラ・パブリッシング)、『サイゴンのシド・チャリシー』(詩集:書肆山田)。