小沼純一
蓮の花が咲く大きな池。蓮摘みの女性たちが歌ううた。休憩しているときには本を読むシクロ乗り。小物をケースに入れて売り歩くストリート・キッズ。ホテルの前で終日佇んでいるアメリカ人。
ヴェトナム戦争が終結し、はじめてこの国でオール・ロケをおこなったトニー・ブイ『季節の中で』を、ハノイの街を歩きながら、想いだしていたかといえば、そんなことはなかった。昨11月末のことである。
現実の街は、ろくに信号もなく、左右に注意しながら、クラクションにめげずに、堂々と道路を渡らなくてはならない。物売りもやってくる。そこいらに座っている人たちの視線が、けっして厳しかったりはしないのだが、こちらへとすっと向く。そんななかぼんやり夢想にふけるわけにはいかない。とはいうものの、東京に戻ってくると、ぼんやりと現実のハノイと、映画のなかの諸々が、ときに、オーヴァーラップするのであった。
ホテル前の街路にベンチをだして座っているアメリカ人は、夜になって、外国人がたむろする飲み屋にいる。ストリート・キッズのウッディがテーブルにやってきて、売りつけようとするブツには、ヴェトナム戦争時のジッポ・ライターがある。男は元海兵隊員。少し酔いながら、少年に値段の交渉をし、会ったことのない自分の娘の話をする。戦争のとき、現地の女性とのあいだにできた子なのだと語る。ウッディは英語がよくわからないから、ぽかんと声だけを聴いている。
店の名は「アポカリプス・ナウ」、言うまでもなく、コッポラ『地獄の黙示録』の原題だ。そして男はハーヴィー・カイテル——ハーヴェイではなく、ハーヴィーが正しい発音らしい——。カイテルは、ちょっとばかり長めに、語る姿がよく似合う。一本の映画のなかで、何回も弁舌さわやかに、というのではない。演説口調というのでもない。相手にむかって、でも同時に、自分自身で話しているのをしっかり聴いている。そんな語り方だ。
だから、かどうかわからないけれど、映画監督とか音楽プロデューサーの役で、むやみやたらとおしゃべりはしないけれども、話すときには話すという姿がしばしば画面に現れる。
アメリカで活躍しているという監督が、故郷ギリシャに戻って、ホメロス叙事詩の主人公さながら、バルカン半島をめぐる、アンゲロプロス『ユリシーズの瞳』。このAと呼ばれる監督をカイテルが演じる。
バルカン半島で最初の映画を撮ったといわれるマナキス兄弟による「未現像のフィルム3巻」を求めて、Aはギリシャからアルバニア、マケドニア、ルーマニア、サライェボへと移動する。マナキス兄弟の博物館員であるらしい女性と出会うものの、求めている情報は得られない。別のところへむかう列車のなかでその女性と再会するが、やはり、「3巻」の行方は知らないと言う。
彼女が駅で降り、Aはドアのところにとどまる。降りないの?と尋ねられても応えないAは、聞いてもらいたいんだと、動きださんとする列車から、いきなり、話を始める。なぜ、いま、なのか。いまになってからなのか。そんな疑問をよそに、彼女はAの言葉について、列車について、歩き、徐々に足を速め、駆け足になり、そしてAに抱えられて列車のなかへとふたたび乗ってしまう、乗せられてしまうのである。A=カイテルの語りは、もちろんその話そのものもだが、淡々とした口調でありながら、ひとに声が、話がむけられることの真摯さを、否応なしに伝える。
そうだ、カイテルは、自身、母親がルーマニア系、父親がポーランド系だという。そんなことを想いおこすと、20世紀末のユリシーズ、タクシーに、列車に、船にとさまざまな移動をとる役柄としての旅人と、カイテルという生身の人物が重なってもくるようだ。
おなじ映画監督を演じても、アベル・フェラーラ『スネーク・アイズ』でのカイテルは大きく違う。そもそも『ユリシーズの瞳』では、映画監督でありながら、自分では一切カメラをまわすことがなかった。対してこちらは、何度にもわたって映画のコンセプトを語る。かといって、政治家のよう、ビジネスマンのよう、にではない。自信はあり、自らのイメージもはっきりある。でも、それを言葉にするときに、どこかずれてしまうこともわかっている語り口。そうしたシーンは、また、映画のリハーサルなり本番なりを撮影している画面とわざと違った、粗いテクスチュアになっていて、ストーリーの展開ともども、立体性が浮きあがってくる。ちなみに、カイテルとの共演はマドンナで、とてもキレイだったり可愛かったり酷薄だったり醜かったりとメイクの差が楽しめる。
いま触れてきた作品がどれも'90年代、名優として知られ、熟年になって存在感をもったカイテルであるのに対し、シグ・ショア『ザッツ・ザ・ウェイ・オブ・ザ・ワールド』では、「黄金の耳」を持つと呼ばれる辣腕プロデューサー役だ。ずっと若く、細く見える。'75年の作品だから、当時30代半ばか。
ソウル系のグループを売りだそうとしていた矢先、田舎からでてきた「ザ・ペイジズ」なるノーテンキなファミリー・コーラス・グループを扱わなくてならないとの社命がくだる。スタジオで、アレンジの変更を指示し、楽器ごとの音を別々に録音し、重ねてゆくことで、だんだんと「しょうもない」コーラスがそれなりに商品として仕上がってゆくプロセスは、アース・ウィンド・アンド・ファイアーがローラー・ディスコなる珍しい場所で演奏しているシーンとともに、'70年代音楽シーンの一部を垣間みられる。これら両極のあいだで、社の上層部などに対して、あるいは知人や親に対して、自らの方向性なるものを熱意をこめて語るか、そしてそれがかならずしもうまくいかないことのもやもやとしたカイテルの身体演戯が、この映画での見どころのひとつだ。
カイテルといって、ウェイン・ワン『スモーク』を忘れるわけにはいかない。ご存知、ポール・オースター原作による最初の映画で、この後、『ブルー・イン・ザ・フェイス』『ルル・オン・ザ・ブリッジ』と、カイテルは出演することになるのだが(ああ、この『ブルー』は、なぜDVDにならないのだろう!)、ブルックリンの煙草屋のオヤジが、すばらしい。
カイテル演じるオーギー・レンは、毎日毎日、おなじ時間に、おなじ街、おなじ角度で写真を撮る。それがすでに4000日以上で、すべて日付順にアルバムに収められている。いろいろあって、映画の最後、自分がどうして写真を写すようになったのかというストーリーを、ナレーションとして語るのだ。これは、これまで触れてきた語りとはいささか異なっているけれども、カイテルの語りというところでは、はずせない。ストーリーとしての出来も秀逸である(柴田元幸による翻訳もある)。映画のなかの人物としてオーギー・レン=カイテルが体験談をするわけだが、それがどこかしら『ユリシーズの瞳』の列車からの語りとシンクロしもする。どちらも写真を写すということで、また、自らの経験と「現在」のありようとのつながりにおいて、だ。
語ることと撮ること、なんていうとちょっとややこしくなってしまいそうだが、そんなことも含めて、カイテルが演じる人物、いつしかけっこう観てしまっているのであった。
小沼純一(こぬまじゅんいち)
音楽文化論。早稲田大学教授。近著に『バッハ「ゴルトベルク変奏曲」世界・音楽・メディア』(みすず書房)、『あたらしい教科書 音楽』(監修:プチグラ・パブリッシング)、『サイゴンのシド・チャリシー』(詩集:書肆山田)。