小沼純一
フェルナンド・E・ソラナスの『タンゴ ガルデルの亡命』をサンジェルマン・デ・プレの小さな映画館で観たとき、「ユルマズ・ギュネイに捧ぐ」とあったのが、ものすごく衝撃だった。
ギュネイ、いまだに一本しか観ていない。だが、その印象は強烈だった。
どこからともなく評判は耳にはいってきた。ギュネイという監督の映画がスゴい、と。トルコの映画だという。監督は獄中から演出をして、作品を撮ったのだ、という。'80年代半ばである。いわゆるバブル期のまっただ中。アジアの映画は少しずつはいってきていたが、文芸座でシリーズを組むくらいだったろうか。そこに、トルコの映画が評判となり、列をなしているというのだ。作品は『路 YOL』。
会社の帰り、金曜日の最終回に有楽町で降り、すばる座に行った。しばしば訪れる映画館で、上がって行くと、階段が少し急なので注意を要する。ブニュエルやタヴィアーニ兄弟の映画はここで観た。はいってみて、びっくり。いつもだったら悠々と席がとれる時間なのに、立ち見なのだ。映画は座って観るもの、と思っていたのに、ほとんどはじめてようにして、立って観た。いや、正確に言えば、立って観た映画は一本や二本ではない。でも、大抵は忘れてしまう。この映画は、立っていた印象がつよいのだ、映画に現れる人たちの表情や歩み、風景のありようなどと相俟って。そのストーリーにはどれも、死が、何らかのかたちで寄り添っている。
監督自身は'84年に亡くなっているから、ソラナスは撮影、もしくは編集中にその死を知って、『タンゴ』を捧げたのだろう。出身は違っても、ともに、一種の亡命者であった。
ギュネイはクルド人だった。『路 YOL』は拘置所から五日間限定で仮出所した五人の男の姿を描くが、なかにクルド人の男の話もあった。
クルドといえば、船戸与一の「砂のクロニクル」を想いだす。こちらは少し後、'90年代であるが、クルド・ゲリラの闘争に日本人が混じりつつ展開されるスリリングな長篇小説だった。
もうひとりのクルドの映画監督、バフマン・ゴバディに出会うまではさらに時間がかかった。クルド人は半農半遊牧の民のため、イラン、イラク、トルコと広がって暮らし、ギュネイはトルコ、ゴバディはイランである。イランといえば、そう、ゴバディの先輩たちがこの国でも映画ファンのあいだではしっかり認知されている。アッバス・キアロスタミ、アボルファズル・ジャリリ、モフセン・マフマルバフ、マジッド・マジディ……。ゴバディはキアロスタミの『風が吹くまま』に助監督として、俳優として参加している。
埃が舞うなかでひたすらにセメントを型にはめ、レンガを作りつづける人びと。
古びたくるまで移動する人気のない道筋。
男たちが肩を組み、歌い、踊る結婚式。
ダフ(タンバリンのような楽器)を叩く手、リードのついた笛を吹く口。
外気にさらされた難民キャンプ。凍えそうになりながらも、しっかりした足取りで歩いてゆく老人。
『わが故郷の歌』は、クルド人なら知らぬ者のない高名な、そして齢とった音楽家が、出て行った元・妻が困っているという噂を聞いて、とっくにオヤジになっている息子二人と探してまわるロード・ムーヴィーだ。息子二人にはやるべき仕事もある。それなりに権威もある。でも、父親の一本気には逆らえない。そこがおかしいところでもあるのだが、老人は最後、息子たちからはなれて、一人で先に進んでゆく。
『亀も空を飛ぶ』は、或る村に難民としてやってきた兄妹、そして弟と思しき幼い少年と、村の子どもたちの話だ。兄は腕を失っており、幼い少年は目が見えない。妹の歓心を買おうとする「サテライト」と呼ばれる、リーダー格のメガネ少年。
女の子の表情、まなざし。
街の市場の喧噪と子どもたちが群れ集い、大きなパラボラアンテナをたてようとする丘。
テレヴィに映るアメリカの議会の様子。
掘りだされ、積みあげられた無数の地雷。
幻視される戦車や飛行機、兵士たちと、燃える集落。
はじめは子どもの世界の話なのかと思えるのに、『亀も空を飛ぶ』は、戦争が間近に迫っているなか、子どもたちが抱えている不安と予兆が、彼らの送っているひじょうに現実的、物質的な日々に浸透している映画だ。
あるいは、日本で最初に公開された『酔っぱらった馬の時間』。寒い山を、密輸品を国境まで運ぶため、馬には酒を飲ませて、歩かせる。それ手伝う者のなかには、年端もいかない子どもさえいる。まわりには地雷が埋まっている。
ゴバディの作品は、登場人物もストーリーも、まるで違う。違うけれども、しかし、その違っている世界がたしかにつながっている。それは「現実」として訴えかけてくるというより、ゴバディ監督の映像の質感が、観るものに「感覚的」に伝えてくる、とでも言ったらいいか。感覚的というのは、瞬間瞬間に視線にはいり、脳に記憶される、その「イメージ」のことだ。けっして、ストーリーから導きだされ、言葉に置き換えられてしまうもの——例えば差別とか貧困とか戦争とか——に要約できるものではない。それでいて、「国を持たない最大の少数民族」たるクルドの人たちの世界の、生々しく、しかも否応なしに美しいことか。
これらの映像は、短時間画面からはなれ、あらためて戻ってきてみても、たとえストーリーが少しわからなくなっていても、否応なく眼差しを捉え、網膜に記憶される。そう、まだ映画は何かを伝える力を失っていない。そう思う。
バブマン・ゴバディは1968年生まれ。やっと四十歳になったばかりだ。
小沼純一(こぬまじゅんいち)
音楽文化論。早稲田大学教授。近著に『バッハ「ゴルトベルク変奏曲」世界・音楽・メディア』(みすず書房)、『あたらしい教科書 音楽』(監修:プチグラ・パブリッシング)、『サイゴンのシド・チャリシー』(詩集:書肆山田)。