COLUMN

第15回 対話する俳優のむこうに

小沼純一

 蒸し暑いせいもあるのだろう、ポーリナはシャツとショーツだけで料理をし、歩き廻る。何かしら投げやりで、乱暴である。ロースト・チキンにナイフを突き立て、丁寧さからほど遠い仕草で、肉を切る。ポーリナは演じるのはシガニー・ウィーヴァー。リドリー・スコットの『エイリアン』で、ノストロモ号のなか、一匹の猫とともに残されたリプリー=シガニー・ウィーヴァーは、こんな格好をしていなかっただろうか。ポーリナは肉をよそった皿とワインを手に、ダイニングではなく、おそらくは自室であろうところに行って、床に胡座をかき、ワインをグラスに注ぐ。何かがおかしい。何だろう、空気だろうか、それともこの女性か、なんだろうか。
 南米、独裁政権末期の「とある国」にあって、社会運動に加わっていた学生ポーリナは、十数年前、突然街のなかで捕らえられる。どこかわからないところで拘束され、リーダーの名を吐けと拷問を受ける。目隠しをされ、裸にされ、医師に陵辱される。
 これは語りだ。画面には映ることはない。何度も、言葉として、語られるばかり。フラッシュバックも、回想シーンもない。
 視覚を奪われているそのときの記憶は、医師の声と物言いであり、体臭、かけられていたシューベルトの《死と処女(おとめ)》である。映画という映像を中心として組織されるメディアにあって、その医師がどんな顔をしているのか、誰なのか、誰にもわからない。だが、である。この声の人物、ロベルト(ベン・キングスレー)が、ポーリナと弁護士で夫ジェラルド(スチュアート・ウィルソン)と暮らす家に、ちょっとした偶然からやってくる。機会をとらえ、過去の汚辱をはらそうとするポーリナ。

死と処女
©1994 BEHIND THE SCENES LIMITED ALL RIGHTS RESERVED.

 『死と処女』、サスペンスといえばサスペンスだろう。原作は芝居である。アルゼンチン出身、アリエル・ドーフマンの戯曲を、ロマン・ポランスキーが手掛ける。ポランスキーは芝居の持ち味を生かし、演戯するのはもっぱら女性一人、男性二人のみ。
 舞台となるのは、町からはなれた、海に近い一軒家。そこにいる三人。
 ポーリナとジェラルドが、ときに、ロベルトとジェラルドが「共犯」になり、「敵対」する。どれが本当なのか嘘なのかわからない。あくまで「言葉」が、三人の「あいだ」に緊張関係を生んでゆく。モノローグ的な言葉の威力があり、それを支える、けっして、いや、かならずしもドラマティックとはいえない演戯がある。
 大雨は去ったが、電気は復旧しない。停電はつづいている。蠟燭や懐中電灯の不十分な明るさが映画の風土をつくりだす。この、特別に何かが起らないような設定のなかで、みごとな小道具となるのが、電気器具だ。テープレコーダが、ヴィデオが、ステレオが、懐中電灯が、「真実」へ、「対象」へと近づき、また、遠ざかる媒介となる。
 ポーリナに捕えられ、椅子に縛りつけられたロベルト。太く、つよいビニールテープで口をぐるぐる巻きにされている顔は、頬骨の高さと相俟って、骸骨のかたちが浮きだし、目だけが問い掛けてくる。
 ベランダで対話するポーリナとジェラルドの背後には、夜の空が、雲がながれる空がある。遠く、むこうには、燈台なのだろうか、一定の間隔で明滅する光が、ぽ、ぽ、ぽ、とある。
 もっと後では、この対話する二人のうしろは家になる。カメラが逆を向き、家のなかを行ったり来たりするロベルトの姿が。
 語っている一人、あるいは二人を映しながら、その顔の脇、画面の余白に、何かが動いている。それが雲だったり、光だったり、波だったり、ひとだったり。あるいは、窓にうつる、転がったランプの火だったり。
 家のなかから出て、早朝の岸壁で、膝をついたロベルトの姿が海を背に、語る。真実なのか、そうでないかのはわからない。顔のむこうには白い波がときどきはじける。ずっと海は動きつづけている。

死と処女
©1994 BEHIND THE SCENES LIMITED ALL RIGHTS RESERVED.

 キラールの曲がほとんど聞こえないくらいに始まり、小さいままではあるが、ひとつのたしかな背景として、ロベルトの語りにかぶさってくる。かぶさりつづける。「真実」であるのかないのかの語りを、音楽はさらに、どちらとも判断させないようなかたちで、支える。真実であるとしたならやさしすぎ、虚偽であるならかなしすぎる音楽。スコアを担当したヴォイチェフ・キラールは、『戦場のピアニスト』でもポランスキーと仕事をしているが、曖昧さを曖昧さとしてつくりだすしっかりとした音楽の力を書きえている。
 そう、タイトルから、この映画、シューベルトとつながりがあるのだとわかってはいた。とはいえ、冒頭からいきなり《死と処女》なのである。つよい音が耳にはいってくると同時に、チェロのボディが画面いっぱいに映しだされる。弦楽四重奏のメンバー全員を、俯瞰する、などではない。あくまでチェロの、それもボディであった。
 もしかすると、ひとの身体を暗示しているのだろうか。いや、たしかにヴァイオリンやチェロのかたちは、ひとのかたち、特に女性のトルソなのだが、それがここにも、なのだろうか。
 チェロが冒頭に、なら、レオス・カラックスの『ポンヌフの恋人』がある。あれはコダーイの、激しい、ソロの曲だった。弦楽四重奏だったら、ゴダール、『カルメンという名の女』。そこではベートーヴェン。楽器と楽器そのものの表情、それを弾く姿が、他のものより弦楽器のほうが何かを感じさせるのは、そのボディのせいなのだろうか。

 おなじポランスキーでも、『フランティック』のサスペンスと、センチメンタリズムはここにはない。グレース・ジョーンズがうたう《リベルタンゴ》がながれるパリと、シューベルトのひびく南米の家とでは、容易に比較しようもないのだが、それにしても、アメリカのスター、『インディ・ジョーンズ』と『エイリアン』もシリーズのはじめからすれば、随分年が経ってしまった。『死と処女』もすでに15年ほど前の作品とは。

【プロフィール】

小沼純一(こぬまじゅんいち)
音楽文化論。早稲田大学教授。近著に『バッハ「ゴルトベルク変奏曲」世界・音楽・メディア』(みすず書房)、『あたらしい教科書 音楽』(監修:プチグラ・パブリッシング)、『サイゴンのシド・チャリシー』(詩集:書肆山田)。