COLUMN

第16回 男の性(さが)とお笑いと

小沼純一

 『ヴィーナス』(監督ロジャー・ミッシェル)のピーター・オトゥールを見て、うわぁ!と思ったひとは少なからずいたのではなかろうか。すっかり齢をとっているのに、(昔と相変わらず)女性には目がないという俳優役のオトゥール。このジジイが、およそ現代的で、礼儀どころかしつけもなってない20歳そこそこのねーちゃんに鼻の下をのばす、のである。現実のオトゥールがどうなのかなんて知らない。特に興味もない。でも、こういうかたちでプロデューサーや監督は俳優を選ぶんだ、というところに、ユーモアと残酷さを感じたのだ。何のことか、って? 40年前の『何かいいことないか子猫チャン』(監督クライヴ・ドナー)のことだ。

何かいいことないか子猫チャン
©1965 Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc. All Rights Reserved.
Package Design ©2006 MGM Home Entertainment LLC.
All Rights Reserved.

 ウディ・アレンが脚本を手掛けている(だけじゃなくて、出演もしている)だけあって、俗流フロイト観が満載のこの映画、『ピンクパンサー』のクルーゾ警部ことピーター・セラーズが、フリッツ・ファスベンダーなる精神分析医の役。ここに相談にやってくるのが、若かりしピーター・オトゥール、ともかくイギリス的ハンサムで、モテる。モテるだけじゃなくて、言いよる女性を断れない。そんな「悩み」を解決せんと、両ピーター(セラーズとオトゥール)は奮闘するのだが、はたして解決にむかうのやら混沌にむかうのやら。混沌だろうとなんだろうと、次から次へと「シクスティーズ/’60年代」ファッションを身にまとった美女たちが登場するのはとても楽しい。対照的に、フリッツの奥方が、嫉妬深く、逞しいからだをしていて、しまいにはヴァルキューレのごとく、ホルンの音ともども登場するのはいささかやりすぎ、というか、けっこうそれなりのヨーロッパ的教養が必要とされる。そんなところも含め、いまでは「はぁ」と尻すぼみになってしまう笑いがアナクロ気味ではあるのだけれど、そのずれ方が「歴史」性をまとっているとともに、気の抜け方がなごみにもなったりするのがこの映画の味である。そして、先に記したように、『子猫チャン』と『ヴィーナス』、あまり隔てずに見てみると、男の性(さが)に笑い、月日の惨めさに哀しくなり、ふと、我が身のことまで振りかえったりするのだが……。

何かいいことないか子猫チャン
©1965 Metro-Goldwyn-Mayer Studios Inc. All Rights Reserved.
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 さて、ピーター・セラーズがいて、ウディ・アレンがいて、しかも音楽はバート・バカラックとなると、『子猫チャン』とともに『007/カジノ・ロワイヤル』をはずすわけにはいかない。若いひとは、最近映画化された、シリアスな「若き日のジェームズ・ボンド」登場の『カジノ・ロワイヤル』を想いうかべるかもしれないが、'67年のほうは「007」シリーズのパロディとも番外編とも言うべきもので、「おバカ」度、くだらなさ度がきわめて高い。5人もの監督が一本に携わっているのみならず、デヴィッド・ニーヴンだの、オーソン・ウェルズだのといった大物も登場。個人的に魅惑されずにいられないのは、実在の女スパイ、マタ・ハリと、「007」とのあいだにできた「マタ・ボンド」なる娘が、偽物の、キッチュな東南アジア風舞踊を踊るシーン。バカラックのみごとなオーケストレーションとメロディ・ラインとともに演出されるきらびやかなミュージカル風シーンは、そこだけDVDでは何回もリプレイして見入ってしまう。ユーモアとキッチュの、パロディの大盤振る舞いのなか、こうしたシーンがインサートされているところが、映画を侮れないところでもある。

ビキニマシン
©1965 F. P. PRODUCTIONS. All Rights Reserved.
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 「おバカ」で引いておきたいもう一作は『ビキニマシン』(監督ノーマン・タウログ)。美女ロボットをさしむけ、金持ちの男を誘惑し、そのカネを自らのものにしようと企むゴールドフット博士。ヴィンセント・プライス演じるこの人物、ほんとに、金色の靴を履いているのには失笑。邪悪な博士には、しょうもない助手がいるのはつきもので、古典的でくだらない拷問や、坂の多いサンフランシスコを舞台の(ちと、凡庸な)カー・チェイス、美女ロボットのアタマの悪さも、いい味をだす。ビキニを着た美女ロボットがそれなりにいろいろなタイプになっていて、標的とする金持ちに合わせて送りこまれるのも、男なる動物のしょうもなさをだめ押しされるようなかんじだ。テーマ曲はシュープリームスで、何度も何度もながれるため、いつしか、鼻歌のようにアタマのなかでループしてしまうのには要注意。

 美女ロボットの「教育」は、データによるインプットで、'60年代だから、オープンリール・テープがまわっているコンピュータに、彼女たちが「セット」される。いまだったら、記憶などでも「情報」としてインプットするというのはごくふつうに納得できることだけれども、かつてはどうだったのだろう。誰もが疑いなく、そういうもんだよなと納得したのだろうか。たとえば、もうちょっと後、'80年につくられた、カーク・ダグラスとファラ・フォーセット、そしてハーヴィー・カイテルによる『スペース・サタン』(何と、監督は『雨に唄えば』『パリの恋人』のスタンリー・ドーネン!でも、あきらかに失敗作)では、ロボットがほとんどファラのストーカーと化す。彼女の姿を眼で追っているカイテルのアタマにコードがつながっており、その先はロボットのデータ・バンクがある。男の欲望までもロボットに注入されて、ストーリーはミステリー、あるいは、ホラーのように進むのだが、はたしてこのロボット、もしファラをつかまえたとしても、どうにかできるんだろうか、との疑問が残る。ロボットやサイボーグにおける「性」の問題は、四半世紀ほど前はまだそんなに深く考えられていなかったのだな、きっと。

ビキニマシン
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 で、元に戻ると、『ビキニマシン』の美女ロボット、いうまでもなく、これは『オースティン・パワーズ』の「フェムボット」の元ネタである。そして、ゴールドフット博士の誇張した「笑い」は、そっくりそのまま、「ドクター・イーヴル」に踏襲される。先に引いた『子猫チャン』の俗流精神分析とか『カジノ・ロワイヤル』のスコットランド風衣裳とか、バカラックの音楽とか、その他もろもろ、過去のスパイ映画やSF映画がみごとに換骨奪胎されていて、オリジナルを知っていれば知っているほど、あ、ここはアレだ、と楽しめる。『オースティン・パワーズ』は、だから、もちろんそれだけでもいいのだけれど、'60-'80年代の、まだ東西冷戦状況の種々雑多なB級映画を、あらためて見直したり想いだしたりするきっかけになった作品だったのだ。

【プロフィール】

小沼純一(こぬまじゅんいち)
音楽文化論。早稲田大学教授。近著に『バッハ「ゴルトベルク変奏曲」世界・音楽・メディア』(みすず書房)、『あたらしい教科書 音楽』(監修:プチグラ・パブリッシング)、『サイゴンのシド・チャリシー』(詩集:書肆山田)。