小沼純一
カーボヴェルデ。緑の岬。
そう聞いて想いだしたのは、少し前、2005年にリリースされた松田美緒『アトランティカ』(ビクター/VICP-63039)というアルバムだった。松田美緒はここで、三つのポルトガル語圏、ブラジル、カーボヴェルデ、ポルトガルをつなぐ「うた」を1枚に収め、ちょっと珍しく、そして、日本人らしからぬ視野と心身の広がりを感じさせてくれる。
アルバムにあるあかるさとは大きく違うけれども、カーボヴェルデの島のひとつが舞台になり、音楽が奏でられる映画に出会った。『溶岩の家』である。
溶岩がはじけ、噴きだし、ながれる。音はない。映像もぱちぱちと傷がまじる。
突然、激しい音楽が、あたかもノイズのように、重なってくる。これは……聴きおぼえがある……ヒンデミットの《無伴奏ヴィオラ・ソナタ》の一部。
音楽がつづいているあいだに、女性の顔が、顔が、映しだされる。アフリカ系を中心とした、顔、である。
ゴールデンウィーク中にしなくてはならないことはそれほど多くなかったけれども、休みにはいる直前に依頼されたのが、ペドロ・コスタの3枚組DVDボックスの評だった。
残念ながら、評判になった『ヴァンダの部屋』も、『映画作家ストローブ=ユイレ/あなたの微笑みはどこへ隠れたの?』も見損なっていて、これが1959年生まれ、つまりわたし自身と同い年の監督の「初見」にあたるのだが、テレヴィの画面でもインパクトが充分にあった。ポルトガルの映画監督といえばマノエル・デ・オリヴェイラやパウロ・ローシャの名がかつてはあがったものだが、これからは1959年生まれのペドロ・コスタこそを想いおこすことになるだろう。いまさら、という気もするけれど、体験はひとによってずれているから、恥ずかしがらずに書いておきたい。ペドロ・コスタ、スゴい!
父親が何か秘密を持っているのではないかと疑心暗鬼し、弟のあういじめと病気に傷つき、父親を薬殺してしまうヴィンセンテ。だが、これは話の発端にすぎない。モノクロームの、暗い映像は、あたかも主人公のなかにある闇をあらわしているかのようで、とてもくっきりと深い『血』(1989)。
『骨』(1997)にでてくるのは、生まれたばかりの赤ん坊をつれあいから受けとると、連れだし、甲斐甲斐しく面倒をみるかと思えば、口うつしにワインを飲ませ、路上で物乞いをする男。感情をみせることがなく、というより、ほとんどないかのようにふるまい、他の女性とベッドをともにし、赤ん坊を売ってしまいさえする。髪がながく、声が高いので、あたかも女性のように見える。リスボン、移民たちの多いスラム街には、やり場のない、沈んだ空気が、剥きだしになった室内の壁や外壁の感触にまといつく。ラジオもテレヴィもなく、音楽も、外からはいってくるものだけだ。余計な説明は一切ない。ただ映像だけが、おもてに見えるものばかりが語ってゆく。
先にオリヴェイラやローシャの名を挙げたが、ペドロ・コスタのリスボンはヴェンダースやタネールのそれとおなじ街なのに、違う。そこには「外」から訪れた好奇の眼差しはない。その視線や描かれているひとやものが違うだけではなく、色が、深みの扱いが異なっていて、ずっとその色や闇に沈潜してゆくのだ。それはむしろ、ブニュエルがときにみせるメキシコや、違うけれども、アンゲロプロスのギリシャ国境、あるいは、ゴバディのイランで、瞬間的に映しだされる傷のような風景を拡大し、持続させているようでもある。
それにしても、『血』でも『骨』でも、何という直接的な、生々しいタイトルだろう。
『溶岩の家』は、他の二作に較べればはるかに物語性があり、それらしき補助線も引かれてはいる。空気の感触が違うのも、アフリカ大陸の西沖合にある島であるせいかもしれない。
冒頭の溶岩のシーン、顔の連続のシーンにつづくのは、リスボンの工事現場。ここで事故を起こし、昏睡状態に陥った「レオン」なる出稼ぎ労働者を、看護婦マリアーナが、故郷カーボヴェルデに付き添ってゆく。映画の舞台はこの大西洋の島のひとつへと移行する。
なかなか登ることのできない、足が埋まってしまう、砂でできているような地面。むこうに見える山々。丘のうえにつくられた質素な墓地。豚や山羊。犬。木々の緑。夜の海。アフリカ系の人たちの肌。色とりどりの衣服。ハンモックに寝る女性。
冒頭に触れたように、この作品には音楽の要素もある。
マリアーナはヴァイオリンを弾く老人バソエと出会うのだが、この老人は一家で音楽をやっている。島々をわたりながら演奏し、とてもたくさんの子どもをつくってきた。ヴァイオリンとはいっても、独自の、クレオールの音楽だ。調子っぱずれで、あぶなっかしい。しわがれているような、でも、逆に、ひとの声のような音色。これがどれほど『溶岩の家』に彩りを添えていることか。
しかし、音楽をやることへの懐疑も老人は口にする。
「わしも若いころは演奏のため——/ここの島々をこの脚で歩いたもんだ/葬式や結婚式さ ブラバ島や北の島でも/でも音楽で飢えや貧困や苦悩を——/なくすことはできない/音楽は尻軽女だ 品の悪い女主人だ/男は金を稼ぐため働くと——/慰めが欲しくなる」
少し前には「音楽はいいもんだ」と語っていたというのに、こんなふうに語られてしまう。事実、バソエの一家は、ポルトガルへ出稼ぎに行こうとしているのだ。
カーボヴェルデは共和国だ。独立が承認されたのは1975年のことで、それまでは長いことポルトガルが支配していた。だから、いまでも出稼ぎはポルトガルへとなる。だが、ヨーロッパにいると、ポルトガルのひとはもっと北にある国へと、やはり仕事をしに行く。なかなか目覚めない「レオン」も島からリスボンで働いていた。
マリアーナは付き添いとしてこの島にやってきた。住民のほとんどはアフリカ系だが、まれに見るそうでないひとは、何かしらわけありである。人びとは、ポルトガル語も話せるようだが、主としてクレオール語で会話をしている。わけありの白人女性は、ポルトガル語を忘れたような顔をして、クレオール語で現地の人たちと会話する。この島で、マリアーナはよそものだ。彼女の「常識」はここでは通用しない。単に異文化だからではなく、貧しさが、貧しさが分泌する感覚が、見えない壁をつくっている。
『血』や『骨』ではあまりはっきりわからなかったし、『溶岩の家』でも、よく似てるなあと思っていたくらいだったのだが、リスボンから島へやってくる看護婦を演じているのは、ジャック・リヴェット『彼女たちの舞台』(1988)やシャルリー・ヴァン・ダム『無伴奏「シャコンヌ」』(1994)にでていたイネス・デ・メデイロスなのだった。『溶岩の家』は1995年の作品だから、『シャコンヌ』とほとんど変わらない。彼女は1968年生まれだから、20代後半といったところだろうか。ポルトガルの女性は、髪が黒いせいもあるのだろうか、しばしば、日本人にも近いかんじがして、つい、眼が惹きつけられる。
映画の終わりに、ふたたび、ヒンデミットのソナタがひびく。冒頭の、激しさではない、もっとゆっくりした、しかし沈鬱なうたが、ヴィオラで。おなじようにヒンデミットのヴィオラ作品がながれていたのは、ゴダールの『ヌーヴェルヴァーグ』だったが、そのありようの何という違いか。しかも、わたしのなかでは、バソエじいさんのきしきしいうヴァイオリンの音が、重なって、同時に、なりひびいているのだ。
小沼純一(こぬまじゅんいち)
音楽文化論。早稲田大学教授。近著に『バッハ「ゴルトベルク変奏曲」世界・音楽・メディア』(みすず書房)、『あたらしい教科書 音楽』(監修:プチグラ・パブリッシング)、『サイゴンのシド・チャリシー』(詩集:書肆山田)。