COLUMN

第18回 ドキュメンタリーとなったオーケストラたち

小沼純一

オーケストラの向こう側
©2004 Anker Productions, Inc. All rights reserved.

 シューベルトの交響曲を聴くのは何年ぶり、いや何十年ぶりだろう。CDであっても、自分から聴こうとすることは、まず、ない。コンサートのプログラムにあっても特に触手は動くこともない。しかも長大な「ザ・グレート」と渾名される作品である。
 演奏が始まると、ああ、この作品は知っている、などと思う間もなく、心身は音楽に沿ってゆく。そして、そのときどきに、演奏の質感がうねりを大きくしたり小さくしたりする。そういえば、この曲は最近、まさにこのオーケストラが演奏する映像で触れていたではないか。
 5月も終わり、サントリーホールでおこなわれたフィラデルフィア管弦楽団のコンサート。ロビーでは、このオーケストラのドキュメンタリーである『オーケストラの向こう側〜フィラデルフィア管弦楽団の秘密〜』のDVDが、その他CDとともに売られていた。多くのひとが寄って来て、手にとり、また購入する。コンサートに来ていたひとにとって、このドキュメンタリーは音楽のみならず、音楽「以上」の何かをもたらしてくれることはあきらかだ。もし、コンサートより前に見ていたならなおさらだろう。あ、あそこに、映画にでていたあのひとがいる、というふうに、単に確認するだけではなく、何かしら演奏する姿の背後にある「生」を重ねることができるのだから。わたし自身、そうやってステージを眺めていた。そしてあらたにシューベルトの交響曲の魅力にも気がついた。

オーケストラの向こう側
©2004 Anker Productions, Inc. All rights reserved.

 フィラデルフィア管弦楽団は、世界のオーケストラのなかでも、映画との縁が特につよい。ストコフスキーが指揮した『オーケストラの少女』があったし、やはりストコフスキーが登場し、ミッキー・マウスと共演する『ファンタジア』もそうだった。しかし、『オーケストラの向こう側』はといえば、もっと奥に踏みこんでゆくのである。ただオーケストラという「マッス」を扱うのではなく、多くの異なったひとが集まって、ひとつの音楽をつくってゆく、その個々人にも眼差しをむける。
 いろいろなひとがいる。コンサートの後で、街のライヴハウスでラテンのバンドに加わるトロンボーン奏者。ジャズで修士号をとり、みごとな即興演奏を披露してくれるホルン奏者。ブルーグラスのバンドに飛び入りするヴァイオリニスト兄弟。アラブ音楽の演奏家と積極的に共演するユダヤ系のチェリスト。ほんとうに多様な個性のひとりひとりが、ひとつのオーケストラを形成しているのだが、その多様性はやはりアメリカ合衆国という国であるからにちがいない。それはヨーロッパでも日本でも、なかなかありえないものだ。オーケストラの「向こう側」とはよくつけたタイトルだ。原題は「MUSIC FROM THE INSIDE OUT」、監督はダニエル・アンカー。
 オーケストラは、映画のなかで、しばしばおもしろい背景をつくりだす。何らかのクライマックスをつくりだすときに、大人数でありながら「マッス」でかつ匿名というひとつの効果を生みだすことになる。ヒッチコック『知りすぎていた男』ではコンサートそのものが重要なひとつの犯罪の場として設定され、野村芳太郎『砂の器』では、コンサートがつづいてゆくなかに、殺人事件の経緯が捜査本部で語られる場面がインサートされてゆく。そうしたなか、フィクションではあるけれど、個々のメンバーにはいりこんでいったのはフェリーニ『オーケストラ・リハーサル』であった。

オーケストラの向こう側
©2004 Anker Productions, Inc. All rights reserved.

 じつのところ、クラシック音楽とかオーケストラというのが、現在、果たして存在価値があるのか、というおもいはつねにある。そういう音楽を愛していても、「西洋・近代・芸術・音楽」というひとつのありようが存続しうるのかどうか、たとえば、コンサートなどに行くと考えてしまう。客席を後ろから見ると、多くのひとのあたまが白かったり光っていたりする。若いひとはけっして多くない。これで大丈夫なのだろうか、とのおもいがよぎる。音楽事務所やオーケストラは、今後のリスナーを育てることをどう考えているのだろうか、と。
 けれども、たとえばバレンボイムが中東の若手音楽家を集めておこなった——おこなっているウエスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラのドキュメンタリー『ラマラ・コンサート』を見ると、音楽をすることの意味や音楽そのものの力について、あらためて信じてもいいとつよく感じさせられるのである。イスラエルとアラブの、政治・社会的には反目しているかのような人たちが一同に会し、ベートーヴェンやチャイコフスキーを演奏する。異なった考えを持っていても、その奏している時間、彼ら彼女らはひとつになる、ならざるをえない。そのとき、ヨーロッパに生まれた芸術音楽は、オーケストラという大人数を必要とするからこそ、異なったひとを動員せざるをえないし、結果、一緒に音楽をする、共同でひとつことをすることに結びつく。これまた滅多に自分から聴くことはないベートーヴェンやチャイコフスキーの交響曲を、バレンボイムのアツい指揮で見て、聴いて、ああ、やっぱりいいものだな、人びとを結びつける熱があるな、とあらためて感じる。そして、そういうときだ、自分がオーケストラにはいることのできる楽器をやってこなかったことを悔やむのは。

オーケストラの向こう側
©2004 Anker Productions, Inc. All rights reserved.

 『ラマラ・コンサート』の何年もかかるプロジェクトには、思想家であったエドワード・サイードが深く関与しており、この映画のなかでも重要な役割を担っている。残念ながら道半ばにして亡くなってしまうのだが、サイードが語る姿を見るためにも、この映画の意味はある。また、これは『オーケストラの向こう側』での、各メンバーの、ヨーロッパ系音楽とは別の音楽を演奏する姿とも共通するのだが、『ラマラ〜』でも、ヴァイオリニストがアラブ音楽をごく自然に弾き、ほかの女性メンバーが手をひらひらさせて踊るシーンには、複数の異なった音楽文化をしっかり持っている——バイリンガルならぬ、バイミュージカリティ——ひとの姿として、感じるものがあった。
 ヨーロッパの古典的名曲とは違ったかたちでオーケストラをやる、試みることだってある。アゴスティーノ・フェッレンテ『ヴィットリオ広場のオーケストラ』がそうだ。元々は古い映画館と街を救おうと始められた、文字どおり文化的背景の異なった音楽家たちの集まり。ヨーロッパ人のみならず、アラブ系もアフリカ系も中南米系もいる。ジプシー/ロマ系もインド系も合衆国からのもいる。いないのは、イタリアという土地柄のせいか、東アジア系だろうか。みんな自分たちの楽器を持ちより、ほんとうは容易に「あわない」はずなのだが、いつしか何とかなってしまう。馴染めないからとやめる者もいるし、あらたにやってくる者もいる。一回かぎりのイヴェントだったはずなのに、いつのまにかメンバーが交代しながら、いまもつづいている新しいかたちの、複数の音楽、ミュージックスが共存しうるオーケストラ。
 こういうドキュメンタリーは、音として音楽としてあらわれてくるもの「以上」の何かをもたらしてくれる。それはつまり、音楽をすることの意味や方向ということであり、オーケストラという多人数でこその可能性にほかならない。

【プロフィール】

小沼純一(こぬまじゅんいち)
音楽文化論。早稲田大学教授。近著に『バッハ「ゴルトベルク変奏曲」世界・音楽・メディア』(みすず書房)、『あたらしい教科書 音楽』(監修:プチグラ・パブリッシング)、『サイゴンのシド・チャリシー』(詩集:書肆山田)。