小沼純一
クリストファー・リーのドラキュラ伯爵、ピーター・カッシングのフランケンシュタイン男爵やヴァン・ヘルシング博士、あるいは古代の魔術師、宇宙からやってくる侵略者。
怪獣は何といっても日本の着ぐるみと破壊される都市のミニチュアが最高だ。でも、ヨーロッパの香り漂う怪奇映画や異世界の出来事は、「外国もの」のほうが優れているんじゃないか。そんなふうに思って、いや、信じこんでいた。少年時代のことだ。こんな少年が「ハマー・フィルム」の名を知るのは随分後になって。すでに会社自体は映画の製作を中止し、ほとんど神話的なものとして語られるようになってからだ。とはいえ、DVD店の棚に、新聞の番組欄に、ふと開いた本のなかに、それらしき題名を見掛けるとついぞくぞくせずにはいられない。これ、見たことがあるかな、どんなのだったかな、と想像をめぐらせる。たとえ手にはとらなくても、想像はしばらくのあいだつづく。
久々に再見したのは、『異郷の美女編』『恐怖の美女編』。タイトルどおり、「美女」をめぐる6本である。こうしたセットは、DVD化するにあたってテーマごとにまとめたものだけれども、それゆえに浮きあがってくることがあっておもしろい。
ローマ軍とケルト系の対立のなか、軍総司令官と女王の恋とがからむ『虐殺の女王』(67)。主演はフィンランド出身のカリタ。日本からだといまひとつぴんとこないけれど、イギリスにとってケルトというのはどうも気になる存在らしい。『虐殺の女王』のみならず、キューブリック『バリー・リンドン』、メル・ギブソン『ブレイブハート』まで想いだしたり。
魔法に操られ、伝説の古代都市まで呼びよせられる女性と、都市の崩壊が描かれる『燃える洞窟』(68)。プロポーション抜群のヒロイン、チェコ出身のオリンカ・ベローヴァは、ヨーロッパの美しい景色をバックに彷徨うのである。わざわざビキニを着て海に飛びこむのである。そして砂漠で迷い、紐をつけられて引き回される。断崖絶壁を歩く。永遠の生命を得た背の高い男と契りを結びそうになる。ううむ。ストーリー展開としては疑問にしても、「金髪美女」のこうした見せどころがあるのがハマー・フィルムの面目躍如。
イギリスの田舎町でおこなわれる邪教崇拝とめぐりあってしまう女性教師の物語は『影なき裁き』。アフリカで教師をしていて、恐ろしいめにあったという前史がポイントで、サイコ・スリラー的な側面もある。その点、主役のジョーン・フォンティーンを著名にしたヒッチコック『レベッカ』とつながってもいるところもなきにしもあらず。
これらは「異郷の」と呼ばれているとおり、製作した国イギリスに対して異郷、異文化が提示されるのが特徴だ。そして、こうした映画の主役で大切なのは「金髪」なんですね。
これら「金髪美女」に対して、『紀元前3万年の女』(68)は、金髪を差別し奴隷にする女性中心の部族が登場。女王役を演じるのは、当然「金髪」ではない、マルティーヌ・ベズウィックというジャマイカ生まれ(両親はイギリス人)の女優。気がつかなかったが、彼女、ボンド・ガールで、『ロシアより愛をこめて』『サンダーボール作戦』、さらに『恐竜100万年』にもでているという。最近『恐竜100万年』も見なおしたのだけれど、ラクエル・ウェルチに気をとられて、ベズウィックはわからなかったなあ。また、あらためて見てみようか。
かなり私的なことを告白させていただきたい。ずっとずっと子どもの頃のこと。いやだ、こわい、と思っていたもの、唯一はっきりと映像が記憶にこびりついてはなれなかったのは、ほかならぬ「蛇女」であった。ありがたいことに、いつからかイメージは遠ざかり、その他多くの不気味なものたちのひとつになりさがってしまったが、ほんとに、もう、「蛇女」、いやだったなあ。
そもそも、蛇と女性の顔とを合体させるなどという発想はどこからきたのだろう。尋常ではない。そりゃあ、いくらでも合体だの合成だのはあるだろうが、よりにもよって蛇だよ、蛇(いま、こう書いてみて、蛙や魚でも、女性の顔と合体させたら……やっぱり……おお、いやだ……)。両眼はとてもはなれていて、むきだし。鼻はあるようでないような、低い突起のようなもの。そして顔全体にあるのだ、うろこが。
『蛇女の脅怖』(66)を映画館で観た記憶はない。そんなのをわざわざ小学校低学年の子どもに見せるほど親も悪趣味ではなかった。念のために母に確かめたけれど、やはり記憶にはないという(かわりに、デパートで見た「世界のヘビ展」で、顔が青くなってたっけねえ、という話までもちだされてしまった)。じゃあ、どこでこの顔を見たのだろう。もう少し経ってから、テレヴィで、だったのだろうか。
舞台は19世紀イギリス。しかも田舎町。20世紀ではなく、せいぜい100年も前ではない、そんな頃だというのが、身近でありつつ遠い、という異郷=異境感を生みだしている。そこにアジアに長く住んでいたという、どこかしら挙動不信な「ドクター」がいる。行動が制限されている美しい娘、アンナがいる。客が邸宅に招かれると、父親に所望されてアンナはインドの楽器、シタールを弾くのである。演奏が熱をおびてくると、ドクターはだんだんと苛立ちをつのらせて、ついには中断を申し渡す。しかも楽器を奪い取って、たたき壊してしまう。突発的に現れる理不尽な暴力! 非ヨーロッパ的なひびき=音楽がもたらす「異」なるものの喚起、か。
アンナという美しい女性は、「脅怖」の蛇女になる。おぞましくも脱皮までしてしまう。その二面性を、ジャクリーン・ピアースなる女優が、いまのハリウッドの技術には及ばないながらも、何時間かメイクされ、演じているという。役者だからとはいうものの、どんな気分だったんだろうな、こんな異形のものになるというのは。
それにしても、である。『蛇女』のみならず、ほかの作品もそうだが、アジアやアフリカ、古代といった現在のヨーロッパにとっての「外」が、わけのわからぬもの、異郷=異教的な、魑魅魍魎たちのいるところとして捉えられていたのだなあ。その意味でハマー・フィルム、それはエンターテインメントであるとともに、ヨーロッパの、特にイギリスを中心にした集合的な無意識を、いろいろなかたちで体現していた工場だったにちがいない。そうしたイメージはスクリーンに投射され、観客は驚き、恐怖し、逆にそれが「外」のもの、架空のものであることに安心して、映画館から「こわかったねえ」と会話しながら、家路をたどったのだ。美女は金髪、というすりこみとともに。
上に触れたような作品ばかりではない。ドラキュラのように——武藤浩史『ドラキュラからブンガク』(慶應大学出版会)を参照——、フランケンシュタインのように、死ぬことの恐怖と生きかえることへの願望と畏れ、テクノロジーへのアンビヴァレンツ、咬みつくというエロティスム、おなじヨーロッパでも辺境だったり田舎だったりへの偏見もあるだろう。地球を襲うエイリアンは、アジアやアフリカや、旧ソヴィエト連邦とオーヴァーラップしていたのだ。そういう映画をまた、DVDで見ている「わたし(たち)」は、いま、何を無意識に感じているのか——将来誰かが分析してくれるかな。
そうそう、先に『蛇女』のシタールについて触れたが、ハマー・フィルムの音楽で注目すべきものもある。ここで触れたなかでは、『燃える洞窟』のフリオ・ナッシンビーンが、とても印象的な『恐竜100万年』でもスコアを書いていることがひとつ。また、『影なき裁き』は、リチャード・ロドニー・ベネットが担当しており、シーンごとの曲調の違いはさすがと思わせられるものがある。ご参考まで。
小沼純一(こぬまじゅんいち)
音楽文化論。早稲田大学教授。近著に『バッハ「ゴルトベルク変奏曲」世界・音楽・メディア』(みすず書房)、『あたらしい教科書 音楽』(監修:プチグラ・パブリッシング)、『サイゴンのシド・チャリシー』(詩集:書肆山田)。