第35回 半世紀後のB.B.

小沼純一

一定のビートのうえ、複数のパーカッションがポリリズムをきざみ、トランペットとピアノが掛け合いをする。

どんよりと部屋にやってきたおんなはだんだんとリズムにからだを揺らすようになり、からだの隅々がダンスへと移行してゆく。音楽に身体がシンクロし、忘我へとむかってゆく。スカートの前の部分が割れ、ながくかたちのいい脚がむきだしになる。場所を移動し、鏡にからだが映る。ラテンのリズムに身をまかせる。

おとこたちがおんなをみつめている。ひとりは無表情で、もうひとりは口をわずかに開き、苦しみをたたえている。おんなもまた、ブロンドの髪をかきあげながら、よろこびともかなしみともくるしみともとれる表情で動きつづけている。

素直な悪女

「素直な悪女」

© 1956 - TF1 INTERNATIONAL

若いおとこがピストルをとりだす。銃口とおんなの脚とおとこたちの表情と、ボンゴのかたちのモンタージュ。

踊っているのはブリジット・バルドー。じりじりしながら踊っている姿を見詰めているのは、若いほうがジャン=ルイ・トランティニャン(後年のシブい役柄をよく知っているから、ちょっと可笑しい)、恰幅のいい紳士風がクルト・ユルゲンス。『素直な悪女』(1956)と訳されるこの映画、クライマックスともいうべき終わりの方のシーンである。制作は1956年、B.B.22歳、監督のロジェ・ヴァディムは4年前にこの女優と結婚、原題「そして神は……女を創りたもうた/Et Dieu…Créa la Femme」なる、この映画を制作している。

素直な悪女

「素直な悪女」

© 1956 - TF1 INTERNATIONAL

それにしても、映画監督、こんなふうに気に入った女性を撮るものか、とおもわずにはいられない。映画を観ていて、あ、ここが撮りたかったんだよな、きっと、というカットやシーンがあったりするものだけれど、ヴァディムはもう、ほとんどそればっかりである。恥ずかしげがない。60年代に再婚したジェーン・フォンダを撮った『バーバレラ』でもこの恥ずかしげのなさはおなじだった。ま、それが、作品の質うんぬんとはべつのところで、映画を観るたのしみのひとつではあるのだけれど。

奔放な女性ジュリエットを演じるB.B.をめぐって、男性が3人。それも2人は兄弟ときた。サントロペが舞台になっていても、避暑地として知られる豊かさからは縁遠い。むしろ貧しい。社会的背景はいまひとつだけれど、ときに映る海はみごとなブルーで、そのたびごとに、ふっと息をついてしまう。海にでている小舟のモーターが火を吹くシーンもあり、海の青、炎の赤、ボートの白のコントラストがはえるところはなかなかだ。サントロペという南の土地だからでもあろう、B.B.は何度も靴を脱ぎ、やたらと裸足で歩きまわるのもいい。

先にもふれたように、ジュリエットと音楽は、何かとこの映画中でつながりを持つ。B.B.が踊っていたのは、この時代、世界ではやっていたチャ・チャ・チャ、いわゆるラテン・ミュージックのひとつだ。ウォン・カーウァイの『花様年華』の舞台は1962年だったけれども、そこでなっていたのも偶然ではない。おなじ流行のパラダイムにある。ところが、キューバから生まれてきた音楽、59年にキューバが社会主義国になって、徐々にすたれていってしまう。政治的な影響も音楽に反映するという例のひとつといえよう。そして、キューバ音楽の流行が忘れられ、世界的に社会主義体制も衰退してきたころ、『ブエナビスタ・ソシアル・クラブ』でのリヴァイヴァルになる。このシーン、やはりB.B.が踊るのは、ジャズでもロックでもなく、ラテンであるところがまた、シャレている。

裸で御免なさい

「裸で御免なさい」

© 1956 - TF1 INTERNATIONAL

一方、ソランジュ・ベリーの《やさしいことを言って/Dis-moi quelque chose de gentil》がジュークボックスからながれジュリエットはうっとりと聴きいっている。このメロディは何度かバックでもながれもする。ラジオにジルベール・ベコーの《ぼくのこころが破裂する/Mon Coeur éclate》がかかると、ジュリエットは「ベコーだ!」とよろこぶ。B.B.とサントロペと音楽と——これが『素直な悪女』を、フランスでより、アメリカ合衆国で評価を得た理由かもしれない。

『素直な悪女』の音楽全般はポール・ミスラキによる。アメリカ時代のジャン・ルノワール作品からゴダール『アルファヴィル』のスコアも手掛けた人物で、生まれはトルコ、コンスタンティノープル。おなじB.B.の映画『裸で御免なさい』でも担当している。

『裸で御免なさい』(1956)、原題はEn effeuillant la Marguerite、マーガレットの花弁をつまんで、とでもなろうか。このタイトル、B.B.演じる主人公アニエスがしろうとストリップ・コンテストに出演すること、着ているものを脱いでいくことがかけられているのかもしれない。コンテストにでているのがばれないようにとマスクをつけるのが功を奏したり、イタリア女性「ソフィア」ということにして、片言のイタリア語をまぜたり(これがとても可愛い)と、他愛ないといえばおよそ他愛ないストーリー。新聞記者たちの放埒ぶりもなかなかのものだ。

裸で御免なさい

「裸で御免なさい」

© 1956 - TF1 INTERNATIONAL

とはいえ、バルザック記念館に勝手にはいりこみ、大作家の遺品のガウンを身につけ、『谷間の百合』初版本を古本屋に売り払うなどというのは、はたして現在、通用するユーモアなんだろうか。バルザック?谷間の百合?谷間の百合って、バルドーの胸をさしてるわけ(もしかして、ほんとにそんなニュアンスなんじゃないか、ともおもわぬでもないが)?とでも言われそうだし、セキュリティがおよそいいかげんな旧時代の話、なのかもしれない。

たしかに「ヨーロッパ最大のセックス・シンボル」(DVDにそう記してある)B.B.は胸が大きいのだろう。個人的にはあまりそのあたりに興味がないので、『裸で御免なさい』でも、ストリップのシーンで、さっとでてくるかたちのいい脚にこそ目を見開いてしまうのだが、このあたりの映画では、けっしてそうしたB.B.の部分、からだのパーツをいたずらに強調せず、こだしにしているところにこそ好感がもてたりもする。

『素直な悪女』のB.B.が演じているのは孤児。他方、『裸で御免なさい』や『殿方ご免遊ばせ』(1957)ではなかなかいい家庭の娘さん、いわばお嬢さま。『裸で』の父親は将軍、『殿方』は大統領。いやはや。まあ、実際のB.B.もけっこう裕福な家庭の出身のようだけれど、こうしたコントラストも、ならべてみるときわだつし、どれが好みかというのもそれぞれ分かれて、おもしろい。

殿方ご免遊ばせ

「殿方ご免遊ばせ」

© 1957 FILMSONOR -
LES FILMS ARIANE -
CINETEL - PRETORIA

『殿方』のほぼ冒頭、将来的には夫となる大統領秘書官を追おうとB.B.演じるブリジットがくるまをとばす。パトカーがスピード違反で追いつき、ブリジットは注意をうける。そのとき、平然と言うのである。男性を追っているのだ、と。それでもだめだと、さらに、大好きなの、と強調する。警官は、行っていいよと許してしまうのだ。つまらないことだが、こんなところ、おもわず快哉を叫びたくなってしまうのである。こういう時代、こういうありように。

ここの音楽、冒頭からご機嫌なジャズがひびき、『死刑台のエレベーター』や『危険な関係』だけではない、フランスのジャズがすでに生きているのを感じることができる。クレジットされているのは三人の音楽家、アンリ・クロラ、ユベール・ロスタンとともに、アンドレ・オデール。アンドレ・オデール!日本でも白水社のクセジュ文庫に『音楽の形式』『現代音楽』といった訳書(吉田秀和訳、というのも貴重だ)のある人物。ジャズの批評から実践をいちはやくおこなう一方、シャルリー・ヴァン・ダム監督作品『無伴奏シャコンヌ』の原作小説も著している。映画の音楽としては、シャルル・ベルモン『うたかたの日々』を担当している。まあ、こんなところにひっかかってしまっても、しょうがないといえばしょうがないのだが。

そうそう、いまの若いひとにとって、もしかするとB.B.は動物愛護のおばあさんとしてのほうが知られているかもしれない。あらたにDVD化された三本のなかではそうした片鱗があるのかどうかと、あらためてみてみると、『殿方』には犬を撫でまわしているシーンが。そして『素直な悪女』では、バスに乗ったとき、犬を褒めるかとおもえば、お世話になっているところには猫とウサギ、小鳥がいて、この家をでるときには、ウサギと小鳥は畑のところ放してやる。そして、これはまあ偶然かもしれないし、キャラクターとは無関係ながらも、まさに最後、トランティニャン演じるミシェルに手を引かれ、家にはいるところで、犬がうしろ素直な悪女をささっと通り過ぎてゆく……。

殿方ご免遊ばせ

「殿方ご免遊ばせ」

© 1957 FILMSONOR - LES FILMS ARIANE -
CINETEL - PRETORIA

若いころにはバルドーなどまるで興味はなかった。リアルタイムで知っているなどとはとても言えない。ヨーロッパ映画界にはそれまでなかった「おんな」のからだをさらしたのは1950年代。こちらがある程度でも映画の女性に憧れるようになるのはせいぜい60年代半ばで、『死刑台のエレベーター』のジャンヌ・モロー、『シェルブールの雨傘』のカトリーヌ・ドヌーヴ、いわゆるヌーヴェル・ヴァーグの女優にだったから、何がB.B.だい、と半ば”軽蔑”していたのだった(ゴダールの『軽蔑』に出演しているのを知ったのは、ずっとあとだ)。

ちなみに生年をならべてみると、モローは28年、ドヌーヴは43年、B.B.は34年で、映画になってしまうと実の年齢はごちゃごちゃになってしまうのがわかる。

いまはどうかと問われれば、うーん、とながいこと悩むだろう。そして、その場、そのときごとに、いいかげんなこたえをするだろう、とおもう。つまり、まだ、距離がはかれていないのだ、実際。

プロフィール
小沼純一(こぬまじゅんいち)

音楽文化論。早稲田大学教授。近著に『バッハ「ゴルトベルク変奏曲」世界・音楽・メディア』(みすず書房)、『あたらしい教科書音楽』(監修:プチグラ・パブリッシング)、『サイゴンのシド・チャリシー』(詩集:書肆山田)。